豊臣時代の頃になりますと庶民のえびす様への信仰はより厚くなり、同時期には豊臣秀頼は片桐且元に社殿造営の普請奉行を命じています。またこの頃より市街が発達し、大阪町人の活躍が始まり、江戸期になると大阪は商業の町としてより一層の繁栄を遂げ、それと期を一にして今宮戎神社も大阪の商業を護る神様として篤く崇敬されるようになりました。十日戎の神事もこの頃から賑わいをみせ、延宝三年(1675)の現存する最も古い大阪案内の図「葦分舟」にも十日戎の状景が描かれています。

また文芸の分野においても江戸初期の俳人小西来山の句集で今宮のことが書かれており、中期の大田蜀山人の紀行文にも十日戎が記されています。また浄瑠璃「艶容女舞衣」では十日戎が重要な背景として設定されています。

明治には、それまでの問丸が雑喉場の魚市場、材木商組合、麻苧商組合、蝋商組合、漆商組合、金物商組合等が講社を結成し、十日戎はより一層盛んになりました。

このように時代とともに盛大になってゆく祭礼ですが、惜しくも昭和二十年の戦災で神社はことごとく焼失しました。しかしながら昭和三十一年には本殿が復興し、再び十日戎も活況を呈するようになり、現在では年の最初のお祭りとして近畿圏内は元より全国各地から十日戎の3日間に数多くの参詣があります。

十日戎の笹

笹は、孟宗竹の枝で、いわゆる群がって生えている笹ではありません。竹 は古代から、文学、美術、芸能、民具など日本人の生活とは密接な関係を保ってきました。中でも竹のもつ清浄さ、根強さ、節により苦難に耐え忍ぶ姿、冬も 青々とした葉を付け、更に竹の生命の無限性、旺盛な繁殖力などから、そこに強い生命力と神秘性を感じとり、神霊が宿るとさえ信じてこられました。こうした日本人 の竹に対する感性から、様々な神事に笹が用いられることとなりました。竹取物語のかぐや姫が、竹から生まれるのも同様の信仰から基づいたものです。
十日戎の笹も例 外ではありません。常に青々とした葉をつけ、「いのち」を生み出し続け、「いのち」を常に甦らせている神秘性、その姿は、神道の信仰そのも のであります。神々のご神徳によって、日々「いのち」が甦り、生成発展している姿を象徴しています。

十日戎の象徴ー吉兆ー

十日戎

十日戎の福笹に付ける「吉兆」は、「きっちょう」または「きっきょう」とも呼ばれていますが、神社では古くから「小宝」といいます。あわびのし、銭叺(ゼニカマス)、銭袋(ゼニブクロ)、末広、小判、丁銀、大福帳、烏帽子(エボシ)、臼、打ち出の小槌、米俵、鯛などを一まとめにしたもので、「野の幸(サチ)」「山の幸」「海の幸」を象徴しています。

さて、古来「市」は聖なる山の神「みやげもの」を山の神の使いである山人が里へもってくる場所で、その聖なる山の神の「みやげもの」を我先に受け取るか、あるいは里の物と「すりかえる」のが市の交換です。この交換と引き換えが「かう」と云われていました。

神社へ参拝し授与品を受けてくるのは、この形式が残っていて、受けた「もの」の中にこもる「御神徳(ゴシントク)」つまり「おかげ」をいただく信仰を受け伝えています。十日戎の福笹につけられる吉兆も例外ではありません。このような古くからの信仰が今に生きづづけています。

十日戎

十日戎献鯛行事の由来

十日戎

大阪では古く江戸時代の昔から、毎年一月九日は宵戎に、雑喉場(ざこば)魚市場が戎様にゆかり深い大鯛(雌雄一対)を今宮戎神社に奉献して大漁と商売繁盛を祈願するのが吉例になっていました。明治から昭和前期にかけては、もっとも盛大に美しく飾った献鯛行列が厳粛に繰り広げられたのです。

今は雑喉場の流れを継承する大阪木津市場の人々によって、十日戎に鯛が奉納されています。

宝恵駕行列

宝恵駕行列は十日戎を花やかにいろどる行事の一つであります。もともと大阪ミナミの芸者衆が派手に駕を繰り出して今宮戎神社に参詣したことにその起源がありますが、二百年以上も昔に、それはすでに美々しい行列に整備され、格式ある奉納行事として、また大阪市民らに親しまれる正月行事として、今日に受け継がれてきたのであります。明治・大正・昭和前期の最盛期には、百挺もの駕が華麗をきそい、その壮観の見事だったことが語り草になっています。元禄期には、現在と同じような奉納、宝暦の頃には現在にみられる宝恵駕の形式が整備されていたことがわかる数多くの絵図が残されています。伝統を今に継承して、近来の「宝恵駕」行列は親しみふかい大阪の伝統ある民族行事として、年ごとに盛大な賑わいを見せているのであります。

十日戎